アートとデザイン
- 2017年5月20日
- 読了時間: 4分
更新日:4月7日
先日漫画家の山田玲司さんがやっているニコ生の番組で、ミュシャを題材にアートとデザインについて語っていたのを拝見しました
\クスクス/

結論から言うと本質の重ね合いでとても深く意味のある良い回だったと思う
アートは「問いかけ」でありデザインは「答え」であるという前提のもと、ミュシャの作品を紐解いていくわけなんですが...
今回なぜ面白かったかと言うと、本来相反する「AとB」の意見があった場合、どうしても自分と同意見の方に賛同し、反対意見には「わかってないなあ」と思いがちですよね
でも今回って両方ものすごく正しくて、違うのはあくまで立ち位置であって、送り手側、創り手側として「作品」に対する山田玲司さんの意見と、受け手側として情緒的に「人間」を掘り下げようとするおっくんとの違いであり、両者の思いはすごく真っ当で、稚拙な意見なんて一切無かったと思う
この話しって音楽業界でも昔からある「歌詞派か曲派か」って話しにも似てるのかもしれません
はいそうです、あの最後は殴り合いになるやつですね
まあ普通に考えたら音楽における言葉とメロディは両輪だし、美術における精神と技術も両輪であって「どっちが重要か」ではないんですけどね
んなこと誰もがわかってるんだけど、でもそれはあくまで表向きの話しであって、実はこれらを本気で話すと、必ず自分の「軸足」ってのがあってさ、必ずどっちが先でどっちかが後ってのが各々にあるわけですわ
でそれを言葉で覆そうとしても残念ながら無理なんだよねw
確固たる信念があればあるほど誰かの言葉なんかで自分が信じてきた大切な物がそう簡単には変わらないから
ので当然のことながら今回の話しも行き着く先は「ケタクソ」の問題で、途中からはもはや題材のミュシャすら置き去りにしていくスタイルw
以前も書いたようにアールヌーバーな僕はミュシャが大好きなので、おっくんの言う事に同意でむしろ「よく言った奥野!」と言いたい。ただ、送り手側の僕としては山田玲司さんの一言一句全てにも同意というか、むしろ僕は典型的な”そっち派”だったりもする
僕も担当するアーティストに「歌をうまく歌おう」なんて今まで一度たりとも言った事は無いし、むしろ「そんなことはどーでもいい」と言ってきた方なので思考としては全く同じ種類なんだと思う
でも山田玲司さんは漫画家でありながら美大というアカデミックな世界に行ったが為、異常なまでの「技術」に対する嫌悪感があって、その歪さがこの話しを若干ややこしくさせてしまっている
でもそりゃそうなるわなとも思うんだよね
要はブルーハーツのコピーバンドをやりたかったような少年が、間違えてクラシックの音楽院に入っちゃったようなもんでして、そこには小さな頃からピアノやバイオリンをひたすら練習してきた猛者が山盛りいて、あっちはあっちでまた熾烈な争いがあるわけですよね
そんな所にろくに楽器も弾けないようなパンク少年がいたらあかんわなw
その時の嘲笑が半分トラウマになってしまったが為に
「何百年も前の誰かの曲を上手く弾く練習ばっかしてんじゃねーよ!」
「お前ら1小節でも自分の音符作ってみろよ!」
「俺は言いたい事を言いたいんだ!練習のために音楽やってんじゃねーんだ!」
と泣き叫んでいたわけですw
面倒くさいこと山の如しですねw
なのでより強固に「アートとは普遍に向かう個の葛藤だ!」「技術なんかクソ食らえだ!」
となっていくんですなw
だから山田玲司さんにしたらミュシャが妙に絶賛されるとやっぱりどこかで「イラッ」とするんでしょうね
「技術はすごいけど本人の情念を感じない作品をアートって言うのやめてくれない?」と。
「これは最高の”作品”であってアートとは違うよね」と。
これ...実は僕もすごくわかるんですよね
音楽に置き換えて考えた時、どれだけ売れようがポピュリズムマックスの作品を、変に芸術性が高そうに言われるとやっぱ「はぁ?w」ってなるもんな
でもその偏り方に今度はおっくんも当然「イラッ」とするわけです
「1人でスラブの歴史を背負って書き上げた作品の何がダメなんですか」と。
「っていうかアートってそんなに偉いんですか」と。
いやぁお互いものすごく本質を付いているし、とても純粋だと思う
山田玲司さんの大人げなさも、おっくんの暑苦しさも本気でなければこうはならないし、バランスの取れた折衷案ほど表現を萎えさせる物は無いと改めて思います
客観的に見てて思ったのはアートにせよエンタメにせよ、今二人のちょうど真ん中で渦巻いている物こそが本質であって、作品(アート)の目的って実は「誰かが誰かに語る事」なんじゃないかとすら思う
ドレスコーズの志摩くんの回も頭おかしかったけど今回もすごく意味のある素晴らしい回だった
前半の無料部分




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